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建仁年間 1201〜1204 土御門天皇 二階堂行政
            佐藤朝光
            伊賀光宗
            稲葉光資
正元年間 1259〜1260 御深草天皇 二階堂行藤
応永年間 1394〜1428 後小松天皇 斎藤利永
            御花園天皇 斎藤妙椿
            長井左衛門尉

天文18年 1549〜 後奈良天皇 斎藤道三
天文23年 1554〜 正親町天皇 斎藤義龍
永禄 4年 1561〜 斎藤龍興(竹中半兵衛)
永禄10年 1567年 織田信長
天正 4年 1576年 織田信忠
天正10年 1582年 織田信孝
天正11年 1583年 池田元助
天正13年 1585年 池田輝政
天正19年 1591年 後陽成天皇 豊臣 秀勝
文禄 元年 1592年 織田秀信
慶長 6年 1601年 廃 城

1:二階堂行政(生没年不詳)
鎌倉時代前期の鎌倉幕府吏僚。
二階堂氏の祖。
父は藤原南家流の行遠。母は熱田神宮司季範の妹という。
行政は源頼朝に早くから仕え、鎌倉幕府の文吏として幕政に参画する。頼朝が公文所(後に政所)を開設すると、行政は公文所寄人となり、ついで政所令となる。以後、二階堂氏は代々政所執事として幕府の財政事務を所管することとなる。
頼朝が義経・泰衡らの怨霊をなだめるため永福寺の建立を発願すると、建久2年(1191年)行政はその造営奉行に任じられる。 また行政は、建仁元年(1201)に稲葉山に砦を築き、京都への押さえとする。
行政の一門は、関東から美濃国のほか陸奥・出羽・駿河・伊勢に及び、美作・安芸・伊予・薩摩などにも豪族として繁栄した。

2:佐藤朝光(生没年不詳)
二階堂行政の女婿子。
行政の後を受けて稲葉山城を守る。

3:伊賀光宗(生没年不詳)
佐藤朝光の次男。
次郎左衛門と称し、父の後を受けて稲葉山城を守る。その後、式部丞と称し鎌倉幕府の評定衆・引付頭となるが、幕府に疎まれ信濃国に配流される。
兄の左衛門光孝は、承久年中関東代官に任ぜられ、上洛して京都を守護する。

4:稲葉光資(生没年不詳)
伊賀光宗の弟。
三郎左衛門尉を称する。兄の伊賀光宗が信濃国へ配流された後をうけて稲葉山城を守り、氏名の「伊賀」を居城に因んで「稲葉」と改める。

5:二階堂行藤(1246〜1302)
鎌倉時代末期の武将で二階堂行有の子。
正元元年(1259)稲葉山城主となる。
長じて永仁元年(1293)幕府政所執事となる。正安三年(1301)後二条天皇の皇太子問題で幕府が大覚寺統から抗議を受けた時、行藤は上洛して陳謝の意を表す使者の大任を勤める。
行藤は稲葉山城主として関郷周辺に領地をもっていた関係もあり、娘の理趣尼とともに新長谷寺の再興に尽力する。

6:斉藤利永(?〜1460)
斉藤氏は北面の武士として仕えた家柄で、斉藤帯刀左衛門尉親頼が承久二年(1220)美濃国目代に補せられてから美濃国各務郡に居住するようになる。
利永は美濃国守護土岐持益の執権として、二階堂行藤が去ったあと長く城郭が失われていた稲葉山城を修築して居城とする。康正二年(1456)持益の子持兼が早死したため後継者争いが起こったが、利永は土岐氏の同族者かた土岐成頼を迎え、敵対者を圧えてこの争いを解決し、守護家を守る。

7:斉藤妙椿(1411〜1480)
斉藤利永の弟。応仁の乱が起こると、美濃国守護土岐成頼は兵八千人を率いて京都に出陣し、西軍の山名氏に味方して戦うこと十一年に及んだ。その間、妙椿は稲葉山城に拠ってよく美濃国内を治める。
妙椿は和歌をよくし、一条兼良とも深い親交を結んでいる。
また妙椿は郡上郡篠脇城主東常縁が関東に出陣している留守の間に奪い取った地を、常緑が詠んだ和歌に感銘して返還した逸話は有名である。常在寺や瑞龍寺を建立する。

8:長井新左衛門尉(生没年不詳)
斉藤道三の父。 山城国出身。
日蓮宗妙覚寺と深い関係を持ち、山崎屋と号して油売りを業として全国を渡り歩いたと伝えられる。
いずれの頃からか美濃国守護土岐氏の老臣斉藤利安の門に出入りし、子の道三と共に利安の家臣西村家を奪い取ったと言う。

斉藤道三(1494〜1556)9:斎藤道三(1494〜1556)
戦国大名。
名は利政、のち秀龍。晩年に入道して道三と号す。
美濃国守護土岐氏の老臣斉藤利安の家臣西村家を父と共に奪い取り、次で享禄三年(1530)には利安を殺害して新九郎利政と名乗る。
道三は天文七年(1538)守護代斉藤家を奪い取り、天文十一年に守護土岐頼芸を追い、美濃国を横領して
稲葉山城を修築して入城する。弘治二年(1556)四月二十日、道三は長男の義龍と長良川で戦い敗死する。


10:斉藤義龍(1527〜1561)10:斎藤義龍(1527〜1561)
斉藤道三の子。
母三芳野は美濃国守護土岐頼芸の側室で、義龍を宿して道三に嫁して後に生んだと言われる。
はじめ新九郎高政と称する。
長じて父道三と不和となり、弘治元年(1555)叔父長井道利と謀って道三に背き、翌年長良川で戦って父を討ち破り、美濃国を制圧して稲葉山城主となる。

永禄二年(1559)から織田信長と争ったが、病死する。

11:斉藤龍興(1548〜1573)11:斎藤龍興(1548〜1573)
斎藤道三の孫。
父義龍の後をうけて稲葉山城主となる。尾張国の織田信長と連戦し、
次第に利を失い永禄十年(1567)稲葉山城を奪われる。越前国の朝倉氏に身を寄せたが、
朝倉氏の滅亡と運命を共にする。



12:織田信長(1534〜1582)
織田信秀の子。幼名吉法師。天文十五年(1546)元服して信長を名乗る。
父の死後、尾張国半国を統一する。
永禄三年(1560)駿河国の今川義元を桶狭間に迎え撃って敗死させ、三河国の徳川家康と同盟を結ぶ。その後、尾張国を統一して美濃に進出し、永禄十年に斉藤龍興を破り、清洲城から稲葉山城に移る。
信長は楽市楽座を保護し、稲葉山城を金華山に、井ノ口を岐阜を改め、「天下布武」の朱印を用いるなど、岐阜城を天下統一の本拠地とする。天正十年(1582)明智光秀の謀反により京都本能寺で自害する。

13:織田信忠(1557〜1582)
織田信長の長男。信長に従って各地に転戦する。
天正四年(1576)信長が岐阜城から安土城に移ると、信忠が岐阜城主となる。
天正十年、甲斐国に攻め入って武田勝頼を討ち滅ぼす。同年の本能寺の変に際して京都妙覚寺に籠もり、明智軍と奮戦の末に自刃する。

14:神戸信孝(1558〜1583)
織田信長の三男。伊勢国神戸氏の養子となる。
天正十年(1582)本能寺の変後、羽柴秀吉とともに明智光秀を破って美濃国を領し岐阜城主となる。秀吉が柴田勝家と争うや信孝は勝家と結び、兄信雄・秀吉と抗争する。
同十一年勝家が敗死したので信雄に降り、尾張知多郡内海に逃れ、「昔より 主とうつみの 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」の辞世を残して自害する。

15:池田元助(1559〜1584)
池田恒興(信輝)の嫡子。恒興・元助の父子は、織田信長に臣従する。
本能寺の変後、羽柴秀吉に与力する。
その功により恒興は大垣城主に、元助は岐阜城主に、弟の信輝(後に輝政と改名)は池尻城主となる。
天正十二年(1584)小牧長久手の戦いで恒興・元助は織田信雄の犬山城を占領したが、長久手で父子ともに討ち死にする。

16:池田輝政(1564〜1613)
池田恒興の次男。織田信長・豊臣秀吉に仕える。
天正十二年(1584)長久手の戦いで父の恒興と兄の元助が戦死したため輝政は遺領を継ぎ、美濃国内で十万石を領して岐阜城主となる。後に三河国吉田に移る。
慶長五年(1600)の関ヶ原合戦には徳川方に属して、岐阜城を攻め落とす。
その戦功により播磨国領主となり姫路城を築く。

17:豊臣秀勝(1569〜1592)
豊臣秀吉の姉の子で、秀吉の養子となる。
丹波亀山城主・甲府城主を経て、天正十九年(1591)三月岐阜城主となる。秀勝は翌文禄元年六月、兵三千人を率いて細川忠興とともに朝鮮半島へ出兵する。
在陣三ヶ月で戦地で病死する。

18:織田秀信(1580〜1605)18:織田秀信(1580〜1605)
織田信忠の子で、信長の孫にあたる。
岐阜城で生まれ、幼名を三法師という。
天正十年(1582)本能寺の変直後、前田玄以は信忠の遺命により三法師を岐阜城から清洲城に移して守る。清洲会議の結果、信長の後継者として安土城に移ったが、天正十二年岐阜城に戻る。
文禄元年(1592)豊臣秀勝が陣没したため秀信が岐阜城主となり、朝鮮半島へ出陣する。慶長五年(1600)の関ヶ原合戦には、秀信は石田三成に味方して西軍に属したが、八月二十三日東軍の池田輝政・福島正則に攻められて開城する。
合戦後、高野山に入り剃髪する。慶長十年高野山において没する。